名古屋・東海ローカルCM 備忘録

名古屋を中心とした中京圏の70年代から90年代にかけて放送されていたCM動画を主に取り上げています。
動画サイトに数多アップされているCM動画を、自分が探しやすくするためのメモみたいなものです。
…のつもりで始めましたが、最近では単なる愚痴や共感を得られるあてもない儚い自己主張の場と化しています。

太平洋フェリー(旧:太平洋沿海フェリー)

伊勢湾海戦後日譚



1960年代。三河湾・伊勢湾の海上覇権を近鉄グループと争い合っていた名鉄グループ。しかし当時名鉄の社長だった土川元夫が1968(昭和43)年に名古屋商工会議所会頭に就任すると、その目は東海地方を越え、広く九州・東北・北海道へと向くようになります。

そうして1970(昭和45)年、土川の主導の下名古屋財界が結集し『太平洋沿海フェリー』が設立され、1972(昭和47)年には大分、1973(昭和48)年には仙台を経由して苫小牧へ向かうフェリー航路が開設されます。

ただし、直後にオイルショックに見舞われ経営難に陥ります。結局、2度のオイルショックにより大分航路は撤退を余儀なくされ、法人自体も解散の憂き目に遭います。1982(昭和57)年、名鉄によって新会社『太平洋フェリー』が設立され、『太平洋沿海フェリー』の営業権が引き継がれ今日に至ります。

太平洋フェリー新造船「きたかみ」 多彩な部屋でペットと船旅も 大部屋廃止(毎日新聞)

現在の『太平洋フェリー』さんは、全長200m級のフェリー「いしかり」・「きそ」・「きたかみ」の3隻を保有しており、「いしかり」と「きそ」が名古屋~苫小牧間の隔日運航に充当され、「きたかみ」が毎日運航される仙台~苫小牧便に充当されています。この「きたかみ」が今回、二代目の完成に伴い置き換えられることになったというわけです。

上記のとおり「きたかみ」は通常、名古屋への乗り入れはないわけですが、去る1月20日に新船の引渡しが行われたため旧船も19日に名古屋港へ来航、港内で新船への引継が行われ、旧船は引退となりました。

新船は明日25日から仙台~苫小牧便に充当されます。また旧船も『太平洋フェリー』さんからは引退するものの、売却され第二の人生を送る予定とのことです。

伊勢湾海戦譚 〈後〉



時は高度経済成長期。愛知県の三河湾沿岸と三重県鳥羽とを結ぶ海上交通の覇権を巡り鍔迫り合いを繰り広げていた名鉄と近鉄。これは、当時の名鉄社長・土川元夫と、近鉄社長・佐伯勇が、あからさまにライバル心をむき出しにし、それが両社の事業展開に大きな影響を及ぼしていたためであるとも言えます。フェリー航路開設に至っては『伊勢湾フェリー』を共同で設立し痛み分けをする結果となるものの、その禍根から同社へは双方とも常勤の役員を送り込まなかったなど、両社の関係は必ずしも良好とは呼べないものとなっていました。

『伊勢湾フェリー』設立の少し前である昭和30年代末、当時画期的な高速船として両社が競うように導入したのが「水中翼船」でしたが、昭和40年代に突入するやいなや早くもこれに代わる次世代の高速航行船舶が登場します。「ホバークラフト」です。

「ホバークラフト」とは、船体の上方から下方へと強制的に吸い込んだ空気を、水面(もしくは平坦な地面)に押し付ける形で浮上し、接触抵抗をなくすことで高速で航行できる、という船艇です。海上を滑るように高速で航行し、また平坦な地面であれば水上からそのまま乗り入れることができる水陸両用という特性も相まって、先進的な交通機関として双方が導入に積極的になったのはいうまでもありませんでした。

名鉄側の『愛知観光船』改め『名鉄海上観光船』は三井造船製、近鉄側の『志摩観光汽船』改め『志摩勝浦観光汽船』は三菱重工製の船艇を導入し、1969(昭和44)年7月にまたも双方同時に三河湾沿岸の港と鳥羽とを結ぶホバークラフト航路を開設することとなります。もちろん今回も事前に運輸省(当時)が調整に当たりますが、結局のところまたも両社に免許が下りてしまいます。

双方の熾烈な争いは、さながら “肉弾海戦” と呼ばれるまでになり、ついには実際に事故やトラブルまで引き起こすようになっていました。鳥羽港では出港直後の名鉄のホバークラフトが志摩汽船のホバークラフトに接触、乗り上げてしまう事故を引き起こします。この時、近鉄側は名鉄側の過失を主張するものの、ここでも双方痛み分けということで矛を収める結果となりました。またある時には、志摩汽船のホバークラフトが海上で故障し漂流、これに対し名鉄側が救助を申し入れるものの志摩汽船側が拒否するといったこともありました。

ただ、志摩汽船のホバークラフト航路は早くも2年後の1971(昭和46)年には休止されてしまいます。

時を同じくして、土川は名鉄の社長を退き会長に就任します。本業である自社鉄道事業の拡大政策に傾倒していた近鉄に対して、土川率いる名鉄は、東京モノレールへの参画、省庁から依頼を受けての地方の小私鉄への支援、また明治村の開設や、大阪万博の収集品の保存・展示を目的とするリトルワールドの設立(開設は1983年)、西武のパルコや東急の109の開業に先鞭をつけたメルサの開業など、その事業内容の拡大は本業を超え、また地域を超え、多岐にわたっていました。その傾向は海上交通の分野にも現れるようになり、その後彼は名古屋商工会議所会頭として中部財界を結集し『太平洋沿海フェリー』(現:太平洋フェリー)を設立。自社エリア内に留まらず、全国的な視野で海上交通事業を展開していくことを目論むようになります。

しかし、土川は直後の1974(昭和49)年に会長在任のまま死去します。享年70才でした。この頃から近鉄による名鉄のテリトリーへの攻勢がパッタリと鳴りを潜めだします。むしろそれまでの熾烈な敵対関係がまるでなかったかの如く両者の関係は穏やかなものになっていき、2000年代近くになると、南海電鉄のグループも加えた三者合同フリーきっぷを発売するなど、対峙をするどころか連携をとるまでになっていました。佐伯は1973(昭和48)年に会長に就任。その後も近鉄グループのトップとして君臨し続け、1989(平成元)年86歳でその生涯に幕を閉じます。

土川亡き後の伊勢湾・三河湾の海上交通に限って目を向ければ、志摩勝浦観光汽船はホバークラフト航路の休止に引き続き、1976(昭和51)年には水中翼船航路も廃止することになります。名鉄側も1982(昭和57)年には水中翼船・ホバークラフト双方の航路を廃止しているほか、両社が共同で経営に当たっていた『伊勢湾フェリー』からは、2010(平成22)年に二社が揃って撤退することになります。この結果を見るや、経営者同士のあからさまな意地やメンツのために周りが振り回されただけなのではなかったかと邪推したくなりますが、そもそも時代が変わり、海上交通そのものの需要が往時と比べて大幅に失われてしまったことのほうがこの結果を生んだ最大の要因であったことに間違いありません。

先を争うように波飛沫を上げて行き交った船達が消え、今は再び元からの穏やかな湾内の海に戻っています。時は巡り、今後二社には名古屋駅の再開発事業というビッグプロジェクトも控えています。過去の経緯を踏まえ、21世紀の二社の関係が今後どのような展開を見せていくのか注目されるところです。

著者近影(ウソ)

記事検索
アーカイブ
コメント
カテゴリー
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

アクセス数

    • ライブドアブログ