名古屋・東海ローカルCM 備忘録

名古屋を中心とした中京圏の70年代から90年代にかけて放送されていたCM動画を主に取り上げています。
動画サイトに数多アップされているCM動画を、自分が探しやすくするためのメモみたいなものです。
…のつもりで始めましたが、最近では単なる愚痴や共感を得られるあてもない儚い自己主張の場と化しています。

名古屋テレビ住宅展→名古屋テレビ(メ~テレ)八事ハウジング

今様



名古屋テレビ版

お綾や親にお謝り



お綾ちゃんは、いったい何をしたのでしょう。この早口言葉を聞くたびにそっちの方が気になってしまいます。

それはいいとして、5秒という尺のために、ナレーションがもはや早口言葉になっています。このCM読みは名古屋テレビさんのアナウンサー研修の一環とかでしょうか。

5秒CMの終焉



今では番宣などに当てられることが多いような気がする5秒のCMですが、要は余った端数の時間を埋めるために使われていたのでしょうね。あとは「ご覧のチャンネルは○○テレビです」みたいな局名紹介なんかもあり、これはCMではなく「ジャンクション」と呼ばれている(た)そうです。昔の放送ではよく見かけたものですが、いつしか見なくなってしまいました。ただ、5秒CMに関しては、穴埋めとしてではなく、連続で数本放送されることもあり、これもCMの主たる規格の一つだったことがうかがわれます。

夕方5時の名古屋テレビ


【名古屋テレビ八事住宅展CM・1985(昭和60年)12月】

声優の藤田淑子さんがお亡くなりになりました。まだ68歳。早いですね。私より若い世代の方たちにとっては『キテレツ大百科』の木手英一役。私よりも上の年代の方々にとっては『どろろ』の主題歌の歌唱(♪ホゲホゲタラタラ・・・でお馴染みのあの曲です)の印象が強いかと思われますが、私と同じ40代の方々にとってはやはり、『一休さん』の藤田さんの印象です。

『一休さん』の本放送自体は、月曜夜19時半から放送されていたようなのですが、私はこの時間に『一休さん』を見た記憶がなく、もっぱら夕方5時からの枠で見た記憶しかありません。愛知県内に在住していた時の記憶なので、名古屋テレビでの視聴なのは間違いないのですが、『一休さん』の本放送は1982(昭和57)年の春期クールまで続いていたそうなので、本放送に並行しながら夕方に再放送されていた時期があったということなのでしょうか。当時、明らかに再放送であるこの枠でしか視聴したことがなかったので、本放送がまだ夜に行われていたことを知って子供ながらに驚いた記憶があるのです。それでも夜の本放送を見ること無く終わったんですが・・・。一度、図書館などに出向いて過去の新聞テレビ欄を調べてみないといけませんね。

ちなみに、80年代頃の名古屋テレビ夕方5時の枠に放送されていたCMと言えば、


【ギターペイントCM・1979(昭和54年)頃】


【ハトヤホテル・サンハトヤCM(中京広域圏向け)・80年代】


【マルシンハンバーグCM・80年代】


【ハウス食品 ハウスシチューCM・1985(昭和60)年】

こんなCMだった印象があります。『ハウス』さんのCMは当然として、この17時からの30分は、地元企業以外のCMばかりだったような気がします。同じく平日の夕方の定番CMだった『名古屋テレビグリーンキャンペーン』や『香嵐渓ヘビセンター』、そしてあの『丸辰ビタミンちくわ』などの定番ご当地CMは、17時30分からの「トムとジェリー」や(「ウッドペッカー」や「バーバ・パパ」だった時期もありました)更に18時からの「ニュース600」の時間で見たような気がします。

あの『一休さん』のオープニングのお寺の鐘の音を思い出すと、あの頃の懐かしい夕方の雰囲気がすぐに思い出されてきます。背景に夕暮れの空が描かれていたのもありますしね(まさか早朝の鐘を意図していたということは無いと思うのですが・・・)。藤田さんの訃報を知り、またそれが蘇ってきました。30数年も前の記憶なのに。

八事が大事(だいじ)



3日前と同じタイトルじゃないか、と指摘を受けそうですが、違います。3日前は「大事→おおごと」、今日は「大事→だいじ」と読みます。

その3日前の話題について調べていて初めて『メ~テレ八事ハウジング』が『朝日新聞総合住宅展示場八事ハウジング』と名称変更されていることに気付きました。もちろん、東海三県下にお住まいの皆さんは当然ご存知のことなのかもしれませんが、私のようなよそ者にとっては寝耳に水で、ただ、いつ変わったのかとかも調べてもみたのですがこれが全く情報がありません。移管先の『朝日新聞総合住宅展示場』にも統一されたサイトとかなく、プレスリリースとかも見当たらないのです。私が確認できたのは昨年の初頭までは間違いなく『メ~テレ』の事業だった、というところまでです。しかし、SNS上では今年の春頃に名称が変更されていることに気付いて驚いておられる方もいますので、割と最近の出来事だったのでしょうか。

『メ~テレ八事ハウジング』は1972(昭和47)年9月、当時の『名古屋放送』(局名は「名古屋テレビ」)が『NBN総合住宅展』として開設した住宅展示場です。1975(昭和50)年10月には早くも『名古屋テレビ住宅展八事展示場』と改称し、のちに『名古屋テレビ八事住宅展』、『名古屋テレビ八事ハウジング』、そして『メ~テレ八事ハウジング』と目まぐるしく名称変更を遂げてきました。

一見、50年以上の長きにわたり一貫して東別院にある『名古屋テレビ』と八事との所縁はないように思えるのですが、開設された1972年という時期を鑑みると、地下鉄鶴舞線の開業が決定した頃ですので、高級住宅地八事のステイタスと合わせて、今後昭和区や天白区方面の戸建住宅の建築需要が更に高まると予測されたのも大きな理由のひとつだったのではないでしょうか。

あと気になるのは、『中京テレビ』の存在です。

『中京テレビ』の開局が1969(昭和44)年4月。「中京テレビ」の名は元々『名古屋放送』が会社設立した時の社名だったのですが、開局前に『名古屋放送』へと変更されたという経緯があります。その名が再び使われることになったというわけですが、のちに、在名局随一とも評される番組制作のセンスに八事から本山にかけてのおしゃれなイメージも相まって、八事と言えば『中京テレビ』というイメージが定着しました。この『中京テレビ』と1972年当時、日本テレビ系列かつNET(現:テレビ朝日)系列の番組もネット受けしていた『名古屋テレビ』とで、全国ネット番組のネット受けに関してトラブルとなっており、キー局である『日本テレビ放送網』との間では業務協定に関する係争にまで発展していました。全国的にキー局が厳格に系列局を束ねる「マストバイ」へと統一が進んでいく中で、全国ネット番組の “おいしいとこ取り” と評される旧態依然とした「変則クロスネット」という状況は是正されていく流れにあったということです。実際、この年の年末に三社が和解し、翌1973(昭和48)年4月より『名古屋テレビ』がNET系列、『中京テレビ』が日本テレビ系列へと正式に一本化されますが、これが事実上日本テレビ系列の人気番組を失う結果となってしまった『名古屋テレビ』の側の遺恨となったであろうことは想像に難くないですね。

そして2016(平成28)年、御存知の通り “八事” の『中京テレビ』は、ささしまライブ24地区へと完全移転しました。まるでそれにあわせるかのように “八事” 唯一の『メ~テレ』がフェードアウトしたというわけです。邪推になってしまいますが、『中京テレビ』の存在が『メ~テレ』の住宅展示場事業の大きな継続意義になっていたような気がするのですが、どうでしょう。

八事が大事(だいじ)だったんですよ、たぶん。

1981年“初代”中京テレビへの旅 【これでおしまい】



名古屋テレビは元々教育系番組への取り組みに熱心な放送局でした。1968年には『やあ!やあ!ガキ大将』を制作、小学生に討論会をさせるという当時としては画期的な番組で、こちらの司会が若かりし頃の阿部進さんだったそうです。また、1973年からは幼児向けの60分帯番組『こどもワイドショー ブンブンバンバン』を制作し、一部のNET系列(現在のテレビ朝日系列)局にネットしていました。これは、その年に名古屋テレビが日本テレビ系列を離脱したことにより、それまで放送していた『おはよう!こどもショー』(NTV)に代わるソフトの確保が必要になったことと、同じく朝の幼児向け帯番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』(CX)への対抗が目的だったとのことです。その後も1991年には『ピーカブー』という幼児向け番組も制作、これは内容的にも放送時間的にも、『おはよう!こどもショー』同様日テレ系離脱以前に放送していた『ロンパールーム』(NTV)のコンセプトに近い番組でした。

『県民大学テレビ講座・親と子と』は、(財)愛知県教育サービスセンターの提供で1976年に放送を開始しました。子供を持つ主婦を対象に講座を行うコンセプトで、同様の番組は後の『テレビ寺子屋』(テレビ静岡制作・CX系)などにも見られます。週1回、午前11時台の15分番組ということで、本来ならあまり印象に残らないはずの番組ですが、20年以上続いた長寿番組になったことと、オリジナルのオープニングテーマ曲を持っていたことで、意外と多くの方の印象に残っている番組ではないかと思います。私も学校を休んだ日とか夏休みとかに何気にチャンネルを回すと放送されていたりしてその時の印象が残っています。ちなみに、このテーマ曲が男女デュオによる歌唱だったために、名古屋の番組ということもあってか、歌っているのはチェリッシュのお二人なんじゃないかなどという噂があったりもしましたが、今改めて聞いてみるとどちらかというとダ・カーポさんの歌唱に近い感じがします。あの曲はどなたが歌っていたものなのでしょうか。今回、調べてみてもわかりませんでした。

閑話休題。

セットも無事転換し終えました。中央上部に番組名のロゴが入り、子供心にもそれまでのセットに比べて少し垢抜けたように感じられるものになっていました。そもそも番組というものは、きっちり放送順に収録し、セットもある回を境にしてキッチリ変更されているんだろうな、なんて何となく思っていたのですが、まるでプリウスの新型が出た際に旧型も暫く併売したかのごとく、改編期には二つのセットを平行して使用し収録している時期があるという"テレビのウソ"をこの歳で早くも体験することができたというわけです。

そんなこんなで、ラストである三本目の収録がはじまります。結局のところ観覧席は、それまでの二回分では特にカメラを向けられることもなかったのですが、皆さんめいめい浅沼アナの仰ったよう「年が明けてます」的な気持ちの役作りをして臨んでいるように感じられます。

カバゴン先生のお話は、家庭内での父親と母親の役割の違いという内容でした。

もう少しやり過ごせたら、この暑さと常に油断のできない張り詰めた気持ちから開放されそうです。15分の放送時間のうちどのくらいが過ぎたでしょうか。もう半分くらいかな…もう3分の2くらいは経ったろうか…なんて思っていると、やおら浅沼アナがマイクを手に立ち上がりました。既に、間もなく訪れるであろう開放感の予感のようなものを感じながら気持ちが逸れていたところへ、よりによって浅沼アナはこちらへ歩み寄ってこられ、たくさんいる観覧者の中から、一緒に来ていたもう一組の親子のママさんの方へインタビューを始めたのです。カバゴン先生がなさったお話に対するちょっとした質問に、ちょっとした回答をカメラを向けられながら話すママさん。そして次は右隣に座っていた私の母のところへ。母もカメラを向けられ浅沼アナの質問に答えています。近所のママさん、そしてウチの母と、それまでは母親へのインタビューだったのに、今度はなぜか子供である私にマイクとカメラが近づいてきます。「えっ?、えっ?」と、身構える間もなく、浅沼アナは私に問いかけました。

浅 : 「おとうさんとおかあさん、どっちがこわいかなあ?」

私 : 「ムニャ、ムニャ…○×△※■…」

まともに答えられるはずもなく、“2度目のテレビ出演”はあっさりと幕を閉じたのでした。参加した子供のうち唯一カメラを向けられ、インタビューまでされて…。



収録が終わり、局からは参加者全員に、名古屋テレビのロゴが入った「新辞林」と、同じくロゴ入りの藤色の小型ライトが渡され、「新辞林」にはその場でカバゴン先生がサインをしてくださいました。

局を出て、栄経由で名駅へ。母達がサンロード地下街で買い物をするというので暫く連れ回され、新名古屋駅と近鉄百貨店の地下階の間にあった喫茶店でお茶したあと、既に暗くなった冬の夕暮れ時を名鉄電車で帰路につきました。帰宅してテレビをつけると、つい三時間くらい前に自分にマイクを向けていた浅沼アナが、テレビの中でニュースを読んでいたことは言うまでもありません。

1981年“初代”中京テレビへの旅 【その2】



昼食を摂ることのできる店を捜すため、ようやく見つけた名古屋テレビを再び出る羽目になった我々一行は、11月の大津通を上前津方面に向かって歩き出します。しかし、35年後の現在もさほど変わりありませんが、当時もこの界隈にはあまり飲食店がなく、駅間のちょうど半分くらいのところまで歩いて、敢えなく引き返しました。今から考えれば、名城線で金山か大須辺りまで出たらよかったと思うのですが、戻って来れなくなったりしたら大変なのでそこまでしなかったのでしょう。

結局、大津通に面して東側にあった雑居ビルに半地下に下りるような階段があって、そこを下りて右に折れた通路の左側に「オカ」というおそらく夜はスナックとして営業しているであろう店を見つけ、ランチをやっているようなので入ることにしました。そんなわかりにくい場所の店をよく見つけたなと今更ながら思いますが、今近くを通ってみても、お店どころか該当するビル自体が見当たりません。確かに界隈はコインパーキングがちらほらと目に止まるようになっているので、そのうちのどこかだったのでしょうが、今となってはどこだったのかも判然としません。今になって、もしかしてと思ったことが一つ。なぜビル内が半地下になっていたのか、それは大津通と、1本東の前津通とのほんの数十メートルの間は台地の際になっていて高低差があるので、前津通寄りの建物の構造は低い前津通のレベルに合わせて造られていたからなのではないでしょうか。

ともかく本番の時間までに名古屋テレビに戻らないといけないので、めいめい注文して料理が出てくるのを待ちますが、時間が決まっている時に限ってこれがなかなか出てきません。また外が寒かったせいか、店内は非常に温度が高くなっていて、タバコの煙か調理の煙か、ほんのり曇っている。私はのぼせやすい体質だったので顔を真っ赤にして待っていました。結構時間が経って、ようやく注文したスパゲティが出てきましたが、今度はこれが非常にスパイシー。塩辛いとかではなく、かといってカレーのスパゲティ(インディアンスパ?)でもありません。とにかくコショウの辛さで、小学1年生の口の中は火を噴きます。それでも時間が迫っているので必死で食べました。そんなスパゲティ食べたこともないので目を白黒させて食べましたが、あれって今になって思うと、「あんかけスパ」だったのかもしれません。当時はそんなスパゲティが名古屋にあるなんて知りませんでしたから、コショウをかけてたらフタでも取れて、大量にかかってしまったのを、いいやとそのまま出してきたのかと思ってました。

そんなこんなで一同慌てて掻きこみ、店を出て、通りを挟んで反対側にある名古屋テレビに戻りました。

先ほどのロビーから、奥へ更に進んだところにスタジオがありました。そこそこ広めのスタジオでしたが、その右手奥のみにセットが組まれていて、セットの手前側に観覧用の椅子が並べられていました。

【次回に続く】

著者近影(ウソ)

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